ご寄稿 by Vinayさん

「Dil Se」と「Maharaja」

Vinayさんがサイトがリニューアルなさるそうで、原稿を破棄するのは勿体無いと「寄稿文」として頂いてきました。
ありがとうございます。リニューアルを楽しみにしてます!ところで「A」はどうなったんです?「A」は(笑)

『Dil Se』と『Maharaja』
溶解する娯楽映画と芸術映画の境界線 あるいは、僕のインド映画差別

最近バンガロールでも公開されたこの2本のインド映画は、まことに対照的なものだった。
もともとインドほど娯楽映画と芸術映画の領分が明白にわかれた国はないと言われるが、
いま、その垣根が徐々に融けはじめようとしているような感慨を持ったからだ。
これは確かにインド映画の進化である。

娯楽映画においてもただキャストが良いとか、歌や踊りがすばらしいとかという問題より、
カメラや特殊効果の技術的な側面がますます重視されてきていて、
その水準をクリアしなければ、いくら歌や俳優が良くても人々の足はその映画館に向かない。
同時に芸術映画では一部のインテリが喜ぶようにと政治性や芸術性を声高に叫んだ
高踏的、啓蒙的な作品では誰も見向きもしてくれないという変化が起きているのではないか
(いや、国内ではもともと見向きもされてないか)。

それらは一面では世界市場に進出を賭けるインド映画製作者側の野望の表われであり、
また一面では古き良き娯楽映画を楽しむインド人観客の「バカボン的」野蛮感覚の衰退のようにも見える。
その前者の代表が『Dil Se』のマニラトナム監督であり、
後者の象徴が『マハラジャ』の不人気ぶりのような気がする。

マニラトナムの作品は、日本でも最近公開された『ボンベイ』に代表されるように、
インドで実際に起きた暴動やテロ事件という社会的題材を軸に、男女の愛やインドの自然を叙情的に描いていく。
映像も音楽も「先進国」の客の目と耳を喜ばせてくれる。
彼の作品の質の高さを支えるのは、カメラワークなどの技術スタッフのレベルの高さだと思う。
この点で『Dil Se』は世界標準なのだ。
マニシャ・コイララ、シャル・カーンという華やかな主演キャストとA.R レーマンの音楽を表面的な武器にすることで、
インド娯楽映画の鉄則を一定守りつつ、社会的なメッセージを刺し身のつまにして、
世界市場に乗り込もうとする監督の鼻息の荒さも見せ付けてくれる。

一方、『マハラジャ』は人気俳優ゴービンダと『Dil Se』と同じマニシャ・コイララを主演にして鳴り物入りで公開されたが、
余りにも凡庸なシナリオと、想像を絶するラフな映像技術で客足が遠のいているようだ。
この作品は「インド娯楽映画の王道」の衰退を見せ付けてくれる。
見方を変えれば、この重箱の隅を突つくような日本のインド映画おたくにとって、
重箱の真ん中に巨大な穴があいているような『マハラジャ』こそは、
インド娯楽映画だという賞賛もできるほど、「かたやぶり」な作品だともいえる。
日本や欧州の映画を見慣れた僕からすれば、これほどラフな作りで、製作会社はよくもまあ上映公開をしたもんだという、
驚きとあきれさえもが、インド映画産業のバカボンぶりともいえて、実に頼もしく思えるのだ。
しかし同時に、それではもはやインドの客にも受けないという観客の変化
(技術的には進化だが、国民感性的には退化ともいえる)をほのかに感じる。

インド映画の垣根は融けつつある。日本でインド映画のにわかブームを支える観客がインド映画に望むものは、
他国のものでは考えられないはちゃめちゃさを堂々と見せてくる快感という面が強いと思う。
さらに、そこにいくらかでもインドのいまを深読みできるステレオタイプな社会派テイストが加えられていれば、
「洗練」された感覚を自負する「先進国」の観客はさらに大喜びできる。
これは一種のインド映画差別でもある。僕もその差別者の一人である。
だから『Dil Se』を見ると、インド映画らしくないなどとうんちくをたれ、
『マハラジャ』を見ると(質のひどさに十分あきれつつも)「いやこれぞインドの娯楽映画」と意識的に賞賛してしまうのだ。
もはやこれはインド映画の評価でなく、それを見た「私」がどれだけインド映画通かのせこい競い合いである。

映画のみならず、多くの日本人は「イ・ン・ド」というこの日本語読みの響きの中に、
「危険、きつい、汚い」という日本社会では見えにくくなった差別や野蛮さ、
あるいは「聖なるもの」を、国の体臭として深くイメージづけている。
これはカーストより酷い差別意識の表れだ。
それらが日本人の非日常では見えにくいから、インドの日常を自分の非日常として、蔑みつつ、時には敬う。
ここから僕は逃れたいのだが、逃れられない。
「インドは天才バカボンの国なのだ」と大好きになろうとしながら、差別しているのである。
日本や先進国が失った野蛮さを商品化すれば、僕らは喜ぶ。
しかし、「ソフィスティケイト」された僕らと同じ感性をインドの作品に見ると、
「それはお前のやる領分ではない」という帝国主義者の目と態度でそれらを追い払うのだ。

『Dil Se』が世界で評価されるのは疑いない。また『マハラジャ』が駄作であることも疑いない。
しかし、それは単に作品そのものの評価だけでなく、
インド国内のあらゆる市場で増殖している都市生活者の「ソフィスティケイト」された
「世界標準化」への意識や身振りの変化の表われと繋がっていることを僕はもっと受け入れる必要がある。
問題は、「俺とお前は同じ場所にいる」という感覚をインドの人たちが持ちつつあるというのに、
僕にはいまだそれが希薄だということだ。
これは差別以外の何者でもない。
インド娯楽映画を楽しむことはできても、狂うことのできない一日本人のざんげである。■

[1998年9月13日記] HAE11437@nifty.ne.jp


▲Cityの映画館街にて
話題の『Dil Se』とカンナダ映画『A』の看板。
『Maharaja』も同じ映画コンプレックスで上映していた。
シュールな看板が素敵な『A』についてはあらためて。

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